私の中国物販の原点 エピソード1

蘇州、1999年。世界の工場の黎明期に、私はいた。

目次

  1. 初めて大陸に足を踏み入れた日。
  2. 通訳はコンパニオンで、専門用語は筆談で。
  3. カタコト中国語から始まった交流。
  4. 文化の違いという、衝撃。
  5. SARSと、現地との温度差。

私が初めて中国大陸に足を踏み入れたのは、たしか20世紀末の1999年ごろ。今から27年前のこと。そして2008年の北京オリンピックを先に見据え、自転車専用車線が公道を支配していた時代。

私は当時、Sがつく”歩く人”や”遊ぶ駅”を販売していた某電機メーカーのグループ会社に勤めていて、その自社工場での新製品開発→試作→量産化プロジェクトに参画していた。


目次

初めて大陸に足を踏み入れた日。

初めての中国出張は、一人だった。

初めての海外出張、なぜかビジネスクラスにラッキーアップグレードされ、意気揚々と機内を過ごした。そして上海浦東空港に降り立った。機体から空港内へと進むときの”ムワっ”とした湿気のある暑い空気を今でも覚えている。
右も左も分からない。言葉もわからない。携帯電話もない。Wi-Fiも当然ない。なんとなく他の旅行者の後ろをくっついて、無事イミグレをパスして入国。アルファベットで会社名と私の名前が書かれた看板を持つおじさんが立っていた。

空港から車で4時間半。当時は高速道路も整備されておらず、下道での移動。このおじさんドライバーを信用していいのか疑問をもったまま、だけど頼らないと辿り着けない。複雑な思いと不安、初めて見る街並みや田園風景、歩く人々に目を奪われ一睡もできなかった。

辿り着いた先は——蘇州市新区、当時は珍しい、国営ではない五つ星のホテル。私が来る時間を見計らい、会社の先輩がフロントで迎え入れてくれてホッとした記憶がある。

日系企業が中国の安価な労働力を活用し始めた、まさに「世界の工場」の黎明期だった。その新区では日系企業としては2社目。現地では日本語がほとんど通じない。

何もかもが初めてだった。言葉も、匂いも、食事も、街の空気も。それが私と中国の、最初の出会いだった。


通訳はコンパニオンで、専門用語は筆談で。

早速工場での勤務が開始されたが、言葉がまったく通じない。なぜか全員が怒ってるように会話をしていた。
そして、私にあてがわれた通訳さんが紹介された。当時の通訳は、蘇州大学の学生さんや、夜の飲み屋・日本人相手のスナックのコンパニオンが数名働いていた。日本への留学経験を持った通訳や日本語検定を持つ通訳のような優秀な「デキる通訳」は工場幹部の日本人赴任者専属であることが多く、私のようなペーペーは学生さんやコンパニオンがコミュニケーションのカギだった。

当時の日本人相手のスナックのコンパニオンは、隣には座らない。当然スキンシップもない。お酒を注いだりツマミを持ってきたり、昭和のカラオケを一緒に歌う——いや、歌うよりも踊る。ママさん、チーママさんは日本語が達者。ちょっとお尻をフリフリするだけでなぜか爆笑してくれる。そんな素朴で初々しいコンパニオンたちはなぜか皆、同じコスチュームに身を包み目の前の日本人男性を接客する、とても異様な空間だった。
いわゆるキャバ嬢のような華やかさは皆無。田舎から出稼ぎにきている、あわよくば日本人男性に貢いでもらうためにきているような、古き良き時代だった。

そんなコンパニオンが工場の通訳なのだから、工業全般の専門用語が全く伝わらない。絵や漢字で筆談を試みるも、複数の日本人が一人のコンパニオンをあてに集中して質問するのだから、適当なやりとりにしかならない。今思えば、コンパニオンたちも、なんでここにいるのだろう、という面持ちだった。


カタコト中国語から始まった交流。

そんな状況を打破するため、私はカタコト中国語から覚え、現地の工員(作業員)たちとコミュニケーションをとってみることにした。

「こんにちは → ニーハオ」「ありがとう → シエシエ」「さようなら → ツァイジェン」——この3つからスタート。

毎晩、明日話す5つの短いセンテンスを考え、幹部お付きの優秀な通訳をつかまえては翻訳してもらい、その文章の単語だけを入れ替えては応用して会話する、そんな日々を過ごした。一度の出張で2週間ほど滞在していたから、これを日課にしていると、カタコト中国語でかなりのやりとりができるようになっていった。スマホでAIに翻訳させる現代では考えられないくらいアナログだった。だけどあの経験があればこそ、今があるのだ。

私が中国語を勉強していることを悟った現場の工員たちは、私を面白がって気に入ってくれた。ある時、中国でもドラえもんを知っていることがわかり「ドラえもん絵描き歌」を歌いながら現場にある大きなホワイトボードにドラえもんを描いた。これが工場内のウワサになり、紙を持った工員がこそこそと私の元を訪ねてくるようになった。あたかもサインをねだるかのように。意思疎通は2%くらいだったかもしれないが、それから食事や飲みに誘ってくれたり、週末に観光地を案内してくれるようになった。他の日本人出張者は私のことを不思議がっていたけれど、私はそんな刺激的な経験が、安心を担保された日本人赴任者、出張者と連んでいるより楽しくてしょうがなかった。

交流できればできるほど、お互いを尊重しあう。
日本人 > 中国人という、当時の良からぬ思想を捨て去った私だからできたコミュニケーションだった。


文化の違いという、衝撃。

私が中国での文化の違いに驚いた、避難訓練での一コマのエピソードを紹介する。

日本人赴任者が現地の課長に「今日の避難訓練は、この設備が燃えたことにするから。」と伝えた。

しばらくすると、その設備の周辺に人だかりができていた。その人だかりをかき分けて私が目にしたものとは——現地の課長の部下が一斗缶に木材を立てて、ライターを使って本当に燃やそうとしていたのだ。

工場には化学薬品があちこちに置かれ、火気厳禁の表示もされていた。そんな空間で、木材を燃やそうとしている部下と、誰も注意しない人だかり。その部下は日本人赴任者に背中を軽く蹴飛ばされて、キョトンとしていた。

日本人赴任者の言い方が悪かったのか。現地の課長の指示が悪かったのか。部下の思考が間違っていたのか。
——いや、文化の違いとしか言いようがない。日本人のモノサシや良識で物事を捉えてはいけなかった。

そんなエピソードの引き出しがいくつもある。


SARSと、現地との温度差。

SARSという感染症が流行った頃。日本では連日マスクが売り切れ、まるでパンデミックのような報道がなされていた。仕事とはいえ、そんな中国に行く私を心配する家族や同僚。会社は出張者に十分な枚数のマスクを支給し、予防の徹底を求められた。

しかし、いざ中国に入国すると、現地の人たちは誰もマスクをしていない。空港も、街中も、工場も、レストランも。
ホテルに入るときは全員、体温測定をしていた。その方法は——耳に温度計をツッコむだけ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、と、並んでいる人たちの耳に流れ作業のように温度計をツッコんでいく。消毒もせずに。

そんなもんである。

日本の報道の煽り方が間違っているとは言わないが、SARSもコロナも、感染拡大初期の現地と日本の報道との温度差は激しかった。中国では情報が制限されていることもあったであろうが、そんなもんである。

私は、これが海外の文化の違いなのだと学んでいくと同時に、日本の常識が世界の常識ではないことを、身をもって体感していった。海外の文化に触れるとはそういうこと。日本の常識は、海を渡る前に心の奥底にしまってこなければならない。
そしてインバウンドで訪日する外国人に対しても、日本の常識が通じるとは思ってはならない。

27年の時を超えて中国物販、FRNZの立ち上げに至るまで、私をそうさせた出来事がいくつもあった。そしてあの頃の経験や体感が、今日の私を形成していると言っても過言ではない。

——続きはまた別のエピソードで。


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